家事専業。犬と猫が好きです。(・∀・)ノ ツイッターアカウントは、画面の下の方です。
  • 06«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • »08
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


1945年年3月10日未明の、東京大空襲
2014年03月10日 (月) | 編集 |
こんばんは。
といっても、もう、新聞屋さんが配達に来る時間です。
3月11日になってしまったのですが、ブログ記事の日付は3月10日にします。

このブログを始めてから、東京大空襲について、毎年欠かさず書いています。
その原点はやはり、小学校の教材の映画(1977年ごろ)で見た、
「普通の火事ではない火事」に巻き込まれ、平和に暮らしていた猫達が焼け死ぬ、
という場面が怖く、それはが戦争だったのだと後で知った---
これはこのブログに何度も書いていますが、そういうことです。


サラエボの冬季オリンピックは、中学2年生の時にテレビで見ました。
その後、7~8年くらいして軍事的紛争が起こり、多数の死者が出て、
遺体の埋葬場所がなく、五輪会場が墓場として使われました。
きらびやかだった五輪スタジアムが・・それを知った時、驚き、呆然としました。
フォークランド紛争もそうです。
私は、「イギリスは成熟した国」で、まさか、
アルゼンチンに対して軍事的行動で対抗するとは思いませんでした。
起きる時は起きる、・・それが戦争なのでしょうか。


写真版 東京大空襲の記録 (新潮文庫)写真版 東京大空襲の記録 (新潮文庫)
(1987/07)
早乙女 勝元

商品詳細を見る

この本の著者の、早乙女勝元さんが、2013年12月8日の朝日新聞「声」欄に投稿した文章を取り上げて記事にしている方がいました。(私は後で気がついたので、記事は取ってありませんでした)
リンクして、紹介させていただきます。

ブログ「野の学舎」---吉田道昌の学舎---さま のブログ記事
[日本社会] 12月8日・14日の投書を読んだ(2013-12-14)より、早乙女さんの「声」欄の記事と、ブログ筆者の吉田さまの、考察の部分を抜粋、転載させていただきます。

==================================転載ここから。
 
(2013年12月8日、朝日新聞「声」欄。早乙女勝元さんの投稿文)
<1941年12月8日、私は東京下町の国民学校4年生だった。霜が張った寒い朝、ラジオの臨時ニュースで太平洋戦争開戦を知った。
「いつどこで始まったの」という私の問いに、母が「今朝、西太平洋だってさ」と答えたのを覚えている。みんなが寝ているうちに戦争になったのに驚いたが、ふと懸念が生じた。国民の知らぬところで始まった戦争。ならば国民は無関係でよさそうだが、そうはいかず、銃後が米軍機B29による空襲で戦場化されたのは3年後の44年末からである。
 朝食後に外へ出ると、早くも日の丸を掲げた家が多く、学校でも昼に授業を終えて、先生の音頭で『万歳万歳』を叫んだ。誰も彼も歓迎ムードだった。だが、貧しいガラス職人の私の祖父は違った。
 「世界地図を見よ、小さな桜エビのような日本が、スルメイカみたいな国を相手に戦争するとは。もういかん。もう間に合わん」
 大通りでは、寒風の中を、「神国必勝、打倒米英」ののぼりを先頭にした旗行列が途切れることなく続いていた。>

 日米開戦、真珠湾攻撃の翌朝のことを書いている。投書の文章はこれだけである。早乙女勝元氏は、児童文学作家でもあり、「東京空襲を記録する会」を結成して、ルポルタージュも著している。2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長にもなった。ベトナム戦争の被害者救援にもたずさわった。早乙女氏なら、書きたいことと掲載場所はいくらでもあろうが、早乙女氏は、庶民のこの投稿欄に投書した。

===============================転載ここまで。

私が、早乙女さんの記事で注目すべきだと思ったのは、「いつどこで始まったの」という私の問いに、母が「今朝、西太平洋だってさ」と答えたのを覚えている。みんなが寝ているうちに戦争になったのに驚いたが、ふと懸念が生じた。国民の知らぬところで始まった戦争。ならば国民は無関係でよさそうだが、そうはいかず、という部分です。
「国民の知らぬところで始まった戦争。」
・・・戦争など起きるわけがない(起こすわけがない)という思いがあっても、
最初はどこか他人事のようでも、世界のどの紛争地域を見ていても、
結局は、一般市民が巻き込まれていきます。

------------

早乙女勝元さんは、東京大空襲裁判の、2008年11月13日第7回口頭弁論のほか、
この裁判で証人になっています。
「東京大空襲 原告団ニュース」のHP
東京大空襲訴訟(wikipediaより)→一部抜粋:『2007年(平成19年)3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴をおこなった。』

「日刊ベリタ」の記事。(2013年5月11日)一部抜粋、転載。ここから===========
2013年05月11日11時53分
東京大空襲訴訟、原告の敗訴確定 最高裁が上告を退ける


 5月8日、最高裁第一小法廷(横田尤孝裁判長)は東京大空襲訴訟の原告側の上告を退ける決定をした。1945年3月10日の米軍による空襲は下町地域を焼きつくし、一晩で10万5千人が死亡したとされ、空襲被害者と遺族が謝罪と国家賠償を求め訴訟した。裁判は、一審、二審とも敗訴。「憲法の番人」と言われる最高裁に、憲法における法の下の平等を求めて上告されたが、裁判官5人全員一致で上告を退けた。(加藤〈karibu〉宣子)
==================ここまで。


紹介。
2013年5月14日朝日新聞「声」欄。早乙女勝元さん。==========ここから。

(声)空襲被害者援護法の制定急げ
 作家 早乙女勝元(東京都足立区 81)
 東京大空襲訴訟で最高裁は、被害の実態審理もしないままに上告を棄却した。歓迎すべき判決が出るとは思っていなかったが、せめて一筋の光が差すかの期待はあっけなく裏切られた。
 原告たちは、10万人もの死者の声なき声を代弁していたのである。旧軍人と遺族には手厚い恩給などが補償されているのになぜ民間人には何の救済措置もないのか。国民主権の憲法下にあるまじき差別であり、不条理ではないか。高齢の原告たちにとって、このままでは「死ぬに死ねない」痛切な訴訟であった。
 私も断腸の思いだが、しかし、物は考えようである。訴訟は6年にも及んだが、この間に原告たちの必死の訴えが多くの人の心を動かし、東京大空襲の実態が明らかにされてきた。いざ戦争になったら、民間人はどんな犠牲を強いられるのかの確かな証しになったという意味では、一歩前進だったのではないか。
 原告団はその一歩をさらに進め、立法府は一審の「立法を通じて解決すべき問題」とした判決文の意をくみ、早急に空襲被害者援護法の制定を、と念じてやまない。「民」を尊重し、民間人を棄(す)てず、が民主主義国家のありようのはずである。
======================ここまで。

軍人として召集令状を受け出征した人は、日本に帰還してから、「恩給」を受け取っています。私の祖母の夫(私の祖父)は二度召集され、中国北部とマレーに行き、日本に帰ってきて約1年で病死しました。
祖母は祖父の死後、恩給を受け取っていました。恩給の金額は、父によると、祖母が亡くなった時(2003年10月)には月2万5千円ほどだったようです。(それ以前は、金額は分かりません)
しかし、日本にいて空襲に巻き込まれた民間人は、何の補償もありません。
(また、これは調べてみるべきですが、NNNドキュメント 大島渚『忘れられた皇軍』で取り上げられた、在日朝鮮人で日本軍に徴集された元日本軍軍人は、このドキュメントが撮られた時(1963年)、日本人には与えられる恩給が、給付されていません。今現在はどうなのか、ネットで見た限りは、支給されていません。(日本政府に対し、裁判も起こされている。日本政府は、朝鮮や台湾の元日本軍軍人に、恩給を支給すべきです))



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック