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自分自身にも問う---辺見庸・『水の透視画法--40 表現衝動と表現放棄』--
2009年11月19日 (木) | 編集 |
11月17日付山梨日日新聞・文化面、
辺見庸さんのコラム、『水の透視画法』を、きのうから今日にかけて読んだ。
辺見さんはいつも、人とは違う視点で物事を見ている、と感じる。

辺見さんと同居している犬なのかそうでない犬なのか分からないが、
犬の写真がコラムと共に載っている。
犬の横顔。茶色っぽい、耳が少し垂れた短毛の雑種っぽい犬。
草むらみたいな場所で何かを見ている。何を考えているのか。


以下、辺見さんの文章を紹介。(私が一部を勝手に抜粋して転載)

..................................

 犬にかぎらず生きとし生けるものに、私はたぶん能弁より寡黙をのぞんでいるようだ。自身にたいしても雄弁よりはむしろ訥弁(とつべん)を、饒舌(じょうぜつ)よりはすべからく沈黙をえらぶべし、といい聞かせているときがある。(注:訥弁の訥は朴訥(ぼくとつ)の訥....難しい
なぜそうなのかといえば、このごろしゃべることに疲れ、ツルツル滑らかな語りを聴くのにも辟易(へきえき)しはじめているからではないだろうか。
オーラルな言葉の軽佻(けいちょう)だけではなく、書き言葉の怪しげな調子のよさや嘘くさい美文を読むのも興ざめである。

    ...........................................

 能弁は軽薄であり、訥弁がよい、ときめつけたいのではない。

    ...........................................    

 内奥からもりもりとせりあがってくる語りたいという衝迫につづき、口の先からいままさに放たれようとするわが言葉の意外な浅さ、貧しさ、あざとさにかろうじて気づいて息を呑み、そのまま発語しそびれて、表現衝動と表現放棄(断念)のあいだの闇に宙づりになってもがき、言葉ならぬ意味不明の訥音(とつおん)を苦しげにもらす、数秒あるいは数分間。
それこそが言葉が固有の影としてひきずる負い目にも似た知であり思想ではないのか・・・と、
ぐずぐずおもうのである。

      ......................................

広島と長崎の能弁な市長らがぶちあげた五輪共同招致案には、シンタックス(構文法)にはとくだんの問題はないのに、原爆による死者一人びとりの魂を負うことの畏れ(おそれ)と、真に魂を負うならばきっとそうなるであろう声の震え、もつれ、ためらいがない。
死者の影をおびない、そのぶん俗耳に入りやすい企画とどこかツルツルした常套句(じょうとうく)。
五輪招致話からは怒り、悲しみの呼吸音が聞こえない。聞こえるわけもない。

      .....................................


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