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必要条件と必要十分条件とは?(´・д・`)
2010年11月21日 (日) | 編集 |
こんばんは。
先日コメントをいただいたのですが、その中で使われていた言葉。

必要条件 と 必要十分条件

難しい・・。
当然、私は検索しました。
意味が分からないと、返信できません。

一番分かりやすかったのは、
2ちゃんねるのまとめサイトです。

「必要条件・十分条件が理解できません」

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私は誰の所有物(?)か。
2010年03月09日 (火) | 編集 |
私がよく読んでいるブログの中にとても過激な言葉を発見し、「えっ?」
と見直したが、確かにそう書いてある。
(ここには書きませんが)(一瞬目を疑ったが)
当然、ググります。
その言葉を使う「過激な二人組」について書かれた、別のブログを発見した。
過激な言葉とは裏腹に、その二人組女性の発言内容とブログの管理人さんが書いていることは至極まっとうで、
私は「そうそう、そうなんだよ!分かる。
私が言いたかったのはそういうこと!」と思いながら、ブログを読み続けた。


母の体調がこんな状態な時に、こんなことを思ったり書くのは、不謹慎かもしれない。
でも、
私が看病していることや私の今の生活そのものが、まさにその状態、という事に気がつく。

私が受け取った主旨は、
『女性は結婚する前は父親の所有物、結婚したら夫の所有物、
会社に就職しても、「会社」は「学校」のようなものに過ぎない。学校を出て就職しても、そこで「社会人になった」とはいえないかもしれない。
会社では「女の子」と呼ばれたり、男性のサポート役につく。
女性で男性に混じってホームレスで暮らす人も「集団の中で役割を果たしている」というが、それは金銭の管理だったり、要するに「専業主婦」と変わらない。
「活動家でリーダー」はだいたい、男性だ。その辺は普通の会社や家庭と変わらない。』

過激な二人組や"ホームレスに就職した"という男性、イベントの司会者(?だったと思う)、その過激な女性二人組を詳しく書いたブログの管理人さんの言っていることを私なりにまとめたらこうなったのだが、分かりにくかったらすみません。

私が激しく頷いたのは、「女性は結婚する前は父親の所有物」という部分だ。
薄々気がついてはいても、はっきりとは自覚がない。
(もちろん、この世に生きる全ての人がだれの所有物でもない、とも言い切れないだろうが)
さらに気がついたのは、私は「母の所有物でもある」ということ。
「夫の所有物でもある」とも、言える。

誰が、「男が働いてお金を入れて、女が家計管理を受け持つ(のが"普通")」
なんて決めたんだろうな。
家族の介護を担当することになった女性はよその人に、「大変だね」と言われる。
しかし、介護担当が男性の場合、他人からは、さらに気の毒がられるような気がするのだが。
(実際は、家事や家族の体調のことに詳しくない男性の家族に介護される女性のほうが、
ずっと過酷だと、最近私は身をもって思い知る。母はあまりにも、父に遠慮し過ぎているし、
母の涙を見ていると、父の、母に対する人権侵害行動はあまり収まっていないからだ。)

私の夫は(今日は真面目に、「ダンナ」ではなく夫といいます)、
「会社の女の子がさ・・」とか、「ババァどもがトロイ」とか、
以前いた会社に勤めていた時にはよく、そう言っていた。
会社で、事業所で、勤めている女性のことを「女の子」と言う。
それは私も、自分が正社員で勤めていた時によく聞いた。その度に、嫌な気分になった。
「"男の子"とは言わんだろうに。」と、心の中で突っ込みを入れていた。

すみません。このエントリで言いたいことがまとまらない・・・。
だから、
私は、私から自由になりたいんだよ、一番。そう思った。
ああ・・うーん・・いや、違うな。「この社会」から?
違う、やっぱ、「自分自身から自由に」。?
そういうことではもしかしたら女性だけじゃなく、多くの男性も同じかもしれないのかな。

(私は以前、ある人(男性)にすごく失礼なことを聞いてしまったことがある。
「やっぱり、結婚したいとか思っているんですか?」と。
何気ない質問に聞こえるが、後であれはよくなかったと思った。
まあまあの年齢に達した大人の独身男性=結婚したいと思っているのではないか、
という興味的な幼稚っぽい質問みたいじゃないか。
自分の中にもそういうのがあるんだ。ああ、いやだと後で思う。)

妹のことはここでは詳しく書けないが、"私よりも「自由な選択」をしている"
と思っていた。
看護師だから収入は多い。
でも結局、何かがあったら一気に不安定な立場に落ちてしまうかもしれない。
それにやはり、妹は「切り拓いている」様に見えていたのだがよく考えると、男性パートナーのサポート役だ。(でも妹自身が満足しているのなら、それで良いと思う)
私だって同じ。
両親が死んで万が一、夫が若くして先に死んだら、「寡婦年金」(子どもがいないから貰えるのかどうか、正確には知らない。子がいても、育てるのに大変だ。)と自分が働いてお金を得て、ここでやっと、「自活」することになる。ただ、お金がかかるから病気になったら最後だな、という気はする。
そういうシステムに、日本の社会が出来ている。
ようするに、「豊かなようで豊かじゃない」というのが昔からずっと続いているんだと思う。
近所づきあいも疎遠になった今では、老若男女関係なく、もっと生きにくく。

確かに私は、「所有物」(すごい言い方だが)でいることで、ある程度快適に(身体的・精神的に)過ごせているが、
もちろんその分、「自由」はあまりない。
「お金を稼いでもらっている」から、遠慮しているのは母とそっくりだ。

すみません。長い。


国母君のあの格好は本人の好きなようにさせておけばいいのに
2010年02月18日 (木) | 編集 |
バンクーバーオリンピックの「ハーフパイプ」の日本代表・国母君。
「服装がなっとらん!」だの「態度が良くない」だのいろいろ言われ、結局、
橋本聖子団長の横で「謝罪」(おわび(・・なのか??))の記者会見を開いていた。
私はその騒ぎの数日間のテレビを、自分が具合が悪いながらも、
苦々しい思いで見ていた。
・・というか・・まず、
「日本の株価が急落!!」 「ガソリン価格がとんでもなく急騰か!?」
というレベルの困った事態でも起こったかのような勢いで国母君のことが繰り返し取り上げられていたのには、
「またか。」と、あきれた。
小さいことを取り上げて、
"「態度の悪い」国母君"を作り上げていく。街頭インタビューをする。
テレビってなんだかやっぱ、バカっぽいわ・・朝青龍が終わったと思ったら・・
そういう風にも、思った。

国母君のあの格好を見た私の第一印象。
「ふーん・・まあ、ネクタイの仕方とシャツの出し方はいいと思うけど、
(いや・・イマイチかな・・シャツ出しは・・)
あのずり落ちそうなズボンはダメだわ。イケてない。」

しかし、テレビ報道などでは、「けしからん」ことになっている。

事の発端を書くと・・今日(2月18日付)の朝日新聞社会面より。
国母君の友人が白血病にかかった時、「国母選手は取材を受けるたびに募金を呼びかけ、大会の会場でもファンにドナー登録を頼んだ」という事柄が中心の記事の中に、彼の"服装問題"のことが出ていた。
<一部抜粋。ここから>

< きょうハーフパイプ >
 「服装の乱れ」問題で選手村の入村式出席を自粛した直後の記者会見。監督と選手7人が並ぶ中で、服装に関する質問が重ねられた。
 「ちっ、うっせーな」
 思わず発したつぶやきをマイクは拾った。
 そのひと言が切り取られ、日本のテレビで繰り返し流れた。インターネットの動画サイトにも投稿された。川端達夫文部科学相までが「国を代表して参加しているという自覚が著しく欠けていた」と述べた。


<ここまで>

テレビを見て苦笑したのが、橋本聖子団長と国母君が並んで映っているところ。
「お母さんと子ども」だよ・・あれじゃあ・・。

私は国母君の服装について、日本の選手団のユニホームを崩し着した、
あの格好でもいいんじゃないかと思った。
ただ、日本人の体型では、ズボンのあの腰履きは難しい。
スノーボードをする時の服ならいいと思うけど、スーツのズボン腰履きはねぇ・・。
どうしても、「トイレに行った後に中途半端に上げて出てきてしまった」ように見えてしまう。
街中や、ヘタすると私がよく行く病院の中でも、そういう若い男性を見かける。
その度に、「ああ・・あのズボンを後ろから"ほらっ、パンツが見えるよ"と言って上げてやりたい」
と思う。
だけど、いいんだ。国母君は自分で、あれが「イケてる」と思っているわけだから。
しかしもしかしたら彼は、もう少し年をとってからあの映像を見て、
「うわ、オレってなんつー格好をしてたんだよ・・ダサッ。痛い奴だわ。最悪。」と、
ひとり恥ずかしさにのた打ち回るかもしれない。
「あんなカッコで出ちゃって・・しかもあんな口の利き方・・サイアク。」と、
自分で自分を見て顔をしかめるかも。
それでいいんじゃないかな・・。

「こんな格好じゃ困るな」と思った人がいたら、その人は、
上から下まで舐めるように見て、「イケてるよ!・・でも、ズボンはイケてなくね?」
「・・でもやっぱ・・イマイチ似合ってないよーな感じするし、
センス良く着崩すのって難しいね!」と、言ってあげれば良かったのに、と思う。

今、スノーボード男子ハーフパイプの結果を見たら、国母君、8位だったんだね。

-----東京新聞Web2月18日夕刊より。-------
◆信念貫き『自分の滑り』
 五輪に出場する選手にもプロが多いHP。二十一歳の国母もその一人だ。「メダルを取って人生を変えようとは思っていない」。普段はワールドカップ(W杯)以外にも賞金大会を戦い、他競技の選手ほど五輪へのこだわりはない。

 二度目の五輪の舞台に立ったのも、競技への愛着から。五輪はスノーボードに縁がない人たちにもアピールできる場所。「五輪の舞台でスノーボードのかっこいい面を見せたい」と言う。
----------------------(転載ここまで)

スノーボードが好きなんだね。
また次がある。
これからもガンバレ!国母!


勝間和代さんのコトバ・2
2009年10月19日 (月) | 編集 |
きのうの続きです。
『勝間和代の人生を変えるコトバ』について。


> 自分の行動の結果として、何かいいことがあってもむやみに舞い上がりすぎず、逆に、望まないことや嫌なことがあっても、やたらと悲しがりすぎないということです。

それは分かるような気がする・・。今、自分の現状で感じることもある。
海外ドラマの登場人物を思い出す。
みんな、大変なことがあってもすごい取り乱すわけでもなく、クール。
勝間さんが海外に留学したかとか、海外で仕事をしていたのか、とか知らないのだが、
どこか欧米的だと思った。

>  なぜなら、私たちがコントロールできるのは、日々の行動だけだからです。その結果についてはコントロールできません。

まったくだよね。でも、私は嬉しがりすぎたりはあまりしなくても、
悲しがりすぎる。悲しい時は一度沈んだほうがいいような気がする。
(勝間さんは、「女偏に喜ぶ=嬉しい」という字を使っていない。
私は、よく「嬉しい」を使うが、ちょっと複雑&迷いながらである)

> 極端に私たちが舞い上がりすぎて顰蹙(ひんしゅく)を買ったり、かつ、将来に間違った成功パターンを学習することで禍根を残したりしないよう、うまくいった時にこそ、なぜうまくいったのかという要因を洗い出していきます。

極端に舞い上がりすぎてひんしゅくを買ったって、いいじゃん。「アホか」、と言われてもさ。
ただ、舞い上がりすぎてその後に「落ちる」ようなことがあった場合に備えて、
予防的に舞い上がりすぎないことは、私はあるかなぁ・・。
勝間さんとは少し違う意味で、舞い上がりすぎないかも。

> 常に結果とそこにいたるプロセスをセットで考え、自分自身でも納得がいくプロセスと結果だったときに初めて、うれしさを味わい、自分をほめることをお勧めします。

うーん。分かるけどね。(「分かるけどね」がつくんだよね)
うん。確かに冷静だ。
ここまでクールビューティー的に考えられる人はなかなか、いないと思う。
しかし、何ごとにもこの調子で・・
という意味で勝間さんはこのコラムを書いたのではないだろうが、
私は・・・面倒くさくて、こんな考え方はできないかな。

でも勝間さんのコトバは、
困った時にたまに取り出して『唱える』価値は、なくもないような気がする。
私が唯一、これはいいなと思ったのは、『まねる力』という本にあった、勝間さんの考え方。
本屋さんでちょっと手に取って見てみた。
私は、「良いとこ取り」はいいと思う。いいな、と思ったら真似をしてみる。
そこから始まることもある。

しかしねぇ・・『真似る力』じゃないところが、勝間さんなのだろうか。
確かに、『まねる』の方がひらがなで画数が少なく、本屋で見かけても取っ付き易い。
勝間さんはそこら辺を、
”無意識に”(なわけないだろうが)狙っているのかな、とか考えた。

勝間さんの言葉も、あれだけ膨大な本の中でも、唯一、『まねる力』
については、私は昔から、
「日常の小さなことでも、他人の良いとこ取りをしたい」と思っていたので同感する。

『人生を変えるコトバ』もいいとは思うが、
自分の心の中にしまって持ち歩きたい言葉の数々は、またちょっと違う。
自分が悲しくてどうしようもない時に、
「そうだ・・・あの人はこんなことを言ってたじゃないか・・」という言葉。
それを後日また、書きます。


勝間和代さんのコトバ
2009年10月18日 (日) | 編集 |
10月17日付の朝日新聞青のbe9面の、
     『勝間和代の人生を変えるコトバ』
---<うれしがらず、悲しがらない>---
を読んだ。

この人の言葉は、「良いとこ取り」をすれば、自分の考えがより良い方向に向く、
と感じることもある。
私は勝間和代さんは決して嫌いなタイプではない。
でも、どこか、この「be」シリーズの『勝間和代の人生を変える言葉』を読んでいて、
上滑りにしか頭に入らない・・・というか、すぐに忘れてしまうのはなぜだろう、と考える。
私は、勝間さんが紹介して、「この本いいですよ」という本には興味があるものの、
勝間さん自身が書いた本には、あまり興味がない。

毎回、どれどれ・・と読んでいるが、今回のは、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!
と思ったので、全文、転載してみます。

::::::::::::::以下、きのうの朝日新聞青のbe9面より、転載::::::::::::::

 今回は、さまざまな偶然の結果に自分の気持ちが振り回されすぎないよう、私がふだんから唱えている言葉です。
 つまり、自分の行動の結果として、何かいいことがあってもむやみに舞い上がりすぎず、逆に、望まないことや嫌なことがあっても、やたらと悲しがりすぎないということです。
この言葉を唱えると、心が強くなり、トラブルにも対処できるようになります。
 
 なぜなら、私たちがコントロールできるのは、日々の行動だけだからです。その結果についてはコントロールできません。ふだんから、私たちは自分の行動についてベストを尽くし、その時には最適だと考えているわけですから、その結果の善し悪しは、環境やタイミングに依存していたり、あるいは偶然の結果かもしれないからです。

 うまくいった場合にうれしがりすぎると、その時の行動パターンと成功体験を過度に関連付けてしまい、何でもかんでも、その時の手法をどんなパターンにも適用しがちになってしまいます。
 その成功がタイミングや、周りの人のサポートによる力添えの結果であっても、ついつい自分の能力を過信し、周りへの感謝を忘れてしまいますから、いい時にこそ、冷静になる必要があるのです。
 逆に、結果が悪かった場合に、それを悲しみすぎると、単に環境やタイミングが悪かっただけの結果かもしれないのに、自信を失ってしまったり、再チャレンジの気合をなくしたりしてしまいます。

 もちろん、私たちには感情がありますから、うれしかったり、悲しかったりするのは自然なことです。
 しかし、大事なことは、常に、自分の行動やそれに伴う結果を見つめるもう一人の自分がいて、その自分が、なぜその結果が出たのかを分析することなのです。
 そして、極端に私たちが舞い上がりすぎて顰蹙(ひんしゅく)を買ったり、かつ、将来に間違った成功パターンを学習することで禍根を残したりしないよう、うまくいった時にこそ、なぜうまくいったのかという要因を洗い出していきます。

 常に結果とそこにいたるプロセスをセットで考え、自分自身でも納得がいくプロセスと結果だったときに初めて、うれしさを味わい、自分をほめることをお勧めします。

:::::::::::::::::以上転載終わり:::::::::::::::::::
 
これを読んだ私の感想は、また後日書きます。
ちなみに私は、特に「アンチカツマ(ー)」というわけではありません。