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--年--月--日 (--) | 編集 |
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靖国神社敷地内の「遊就館」は、「秘宝館」または「珍宝館」である。
2014年11月01日 (土) | 編集 |
この前、ツイッター経由で、靖国神社についてのこんなニュースを知りました。

A級戦犯の分祀求め決議=福岡の遺族会、「全国初」(2014/10/28)(全文転載)ここから===============

 福岡県遺族連合会(古賀誠会長)は、靖国神社(東京都千代田区)に合祀(ごうし)されている東条英機元首相らA級戦犯14人の分祀を目指すことを決めた。27日の県戦没者遺族大会で採択した決議に盛り込んだ。同連合会は「全国の遺族会で分祀実現を決議したのは初めてではないか」としている。
 決議は、分祀の理由を「天皇、皇后両陛下、内閣総理大臣、全ての国民に、わだかまりなく靖国神社を参拝していただくため」としている。同連合会は近く、決議文を靖国神社や日本遺族会などに送る。

======================転載ここまで。

私は、下にリンクした方の意見に同意です。
https://twitter.com/akg0011/status/527548405237555200
戦没者が「祀られている」神社が存在することそのものが異常だと思っているので、
「東条英機元首相らA級戦犯14人が分祀」されたとしても、
靖国神社が今の形で(戦死者が神として祀られている)存在する限り、
私はその存在を認めることは出来ません。

以下のリンクは、私が過去に書いた、靖国神社に関する記事です。
参考までに。

靖国神社 2008年08月11日 (月)
靖国神社・続き 2008年08月12日
靖国神社・続き2 2008年08月14日 (木)
靖国神社・遊就館 2008/08/15
靖国神社について2010年08月15日
靖国神社について・2 2010年08月18日
靖国参拝をしなかった総理と閣僚に対する、安倍(晋)ちゃんの言葉 靖国参拝をしなかった総理と閣僚に対する、安倍(晋)ちゃんの言葉2010年08月24日
警察がこんなことをするなんてね・・・私はここで知りました。8月15日の靖国で。2010年08月26日 
~沖縄から問う 靖国裁判~ (テレメンタリー2010)2010年09月04日
『靖国合祀の取り消し認めず 那覇地裁が遺族の訴え棄却』2010年10月26日 
靖国神社についての仙谷官房長官の認識は、理解できる2010年12月28日
国会議員が168人などという大勢で、しかも閣僚も靖国参拝など、もってのほかではないか。 2013年05月19日
【行ってみた】終戦記念日の靖国神社がスゴイ所だった---NAVERまとめより。2013年08月19日

=======================

この中の、④靖国神社・遊就館 2008年08月14日で、
2008年当時に私が書いた内容の一部を、そのままここに転載します。

===============ここから。
・・・・

まあそれはともかく、展示物。
新聞テレビ、ネット等で見聞きしていたので、ああ、こんな感じか・・と思った。
「大展示室」では、当時の飛行機や魚雷、戦車に特攻機が展示してあった。
そういうものに説明書きがあったかどうか、記憶が定かではないけれど、
人間魚雷”回天”は、「これに乗って行ったのか・・」と思うと気が重かった・・。

飯ごうや鉄カブトなど、戦地から収集した物もあった。
錆びていたけれど、生々しかった。

ただ・・パンフレットの最初の文・貴重な史資料が真実を語り継ぐ。に、
違和感を感じた。
(一部)(そのまま)
「・・・近代国家成立のため、わが国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、
皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、
避け得なかった多くの戦いがありました。
それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し、
英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにするのが遊就館の持つ使命であります。・・・」

・・・・中略・・・・

終戦記念日だからか、大勢の人が来ていたけれど、
みんなどんな事を思いながら、考えながら、あの展示物を見ているのだろう・・と、
私はつい展示物を見ている人をながめてしまった。

=====================ここまで。



2006年8月15日に初めて訪れた遊就館は、
「悲惨だった戦争を伝える場」という感じはあまりしなくて、
一種の「歓喜的」なものが感じられました。
もちろん、戦死者の写真もあって生々しくはあるのだけれど、
人間魚雷の回天などは、無造作にポンと置かれている印象を持ちました。
(私の意訳だが)「こういうのに日本兵が乗って、敵をやっつけたんです」、
のような。
あの時遊就館では、真剣に見入る人もいれば、微笑を浮かべ楽しそうに、
普通の博物館かショッピングモールでも歩くような感じの人、
様々な人がいました。
私は、ただ、重い気分ではあったけれど、「どういう博物館なのだろう」
「どうなっちゃってるんだ、この博物館」とぼんやり思いながら、口を開けて
ポカーンと見て回りました。

「遊就館」という博物館は、とにかく変でした。
河口湖に、おそらく個人が経営していると思われる、日本の名車コレクション館があって、
私はそれを見に行ったことがありますが(2006年より以前と記憶している)、
(オーナーの趣味か、日本の戦闘機「零戦」も展示してあった)
雰囲気はそれに似ています。
何だろう。遊就館とは何だろう。

最近、思い浮かびました。
2000年代初めに、夫の兄夫婦家族と子供も含めて6人で、栃木と群馬を
旅行したことがありました。
その時、道で見かけたのが「珍宝館」という看板の建物。
(参照:「秘宝館」(wikipediaより一部抜粋、転載)
実際には「○○秘宝館」と呼ばれる施設は性風俗に関係する物品を陳列する施設とほぼ同一であり、「秘宝館」という語は主に性や性風俗を扱った施設を婉曲的に指すのに用いられている。)
雰囲気で何となく分かったけれど、一応夫に聞いてみたら、「多分そうだよ」と。
そういえば、今はあるかどうか分からないが、山梨でも国道沿いにありました。

遊就館とは、「秘宝館」(珍宝館)ではないだろうか。

なぜ私はそう思ったのか。
その理由は、先ほども書きましたが、
遊就館には、展示の仕方も含め、一種の「歓喜的」なものを感じたからだ、
とも言えます。
どういう種類の「歓喜」なのか(そもそも「歓喜」という言葉が当てはまるのか)、
表現できないのですが。

秘宝館は(私は見に行ったことはないですが)、
見てもあまり害がなさそうですが(ネットでいろいろ見てみました)、
遊就館は、秘宝館よりももっと、
「見てはいけないものを見た」感じがしました。秘宝館よりも、卑猥な感じ。
回天の展示の仕方や戦闘機の展示の仕方、お土産売り場というものを見た時に、
人間に対しての尊厳や良心(「良心」…ですね)を感じられなかったのです。


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復員兵の話
2014年09月27日 (土) | 編集 |
今回は、先日の記事の最後で、書こうと思うと記した、朝日新聞読者の投稿について、です。私が、読者の戦争証言の連載の中でもっとも忘れられなかった話です。

昭和61年7月~62年2月、朝日新聞4面 テーマ談話室「戦争」連載シリーズをまとめた、
朝日ソノラマ発行・朝日新聞テーマ談話室編者の「戦争---血と涙で綴った証言---上巻」(昭和62年7月31日発行)の、
246~7ページ(紙面では昭和61年10月23日付で掲載)より。投稿者は、当時55歳の神奈川県在住の女性。健在であれば83歳になっています。月日の流れを感じます。
全文は、本を写真に撮って載せました。
クリックすると拡大します。

タイトルは、「娘心を傷つけた『南京の話』」。

F100029朝日新聞 声 戦争1

F1000294 (1)朝日新聞 声 戦争2

F1000295 朝日新聞 声 戦争3

この中から、一部抜粋してここに転載します。ここから============

「・・・30畳くらいの部屋に緑色のカヤをいっぱいにつってゴロ寝です。疲れでウトウトしかけたころ、五、六人の男が酒盛りをはじめました。みな復員兵で、いわゆるプロのやみ屋。それぞれに手柄話が始まりました。
 聞くに耐えない話ですが、中国の娘さんを何人もで暴行し、いったい女の体にどこまで手が入るかということになって、どんどん手を入れていくと、腕の付け根まではいるんだとゲラゲラ笑いながら話しているのです。
 私はバネじかけの人形のようにとび起きてカヤの外にとび出そうとしました。すると母があわてて、そっとしてないと何をされるかわからないと引き止めたので、じっとしていましたが、その間にも、それはどこだ? 南京南京、あそこは一番おもしろかったぞ、やり放題盗み放題だ、とにかく行軍中、兵隊が疲れてなかなか指揮がとれなくなると、上官が、もう少しの辛抱だ、次の町に入ったら何でもやれというのだそうです。」・・・

=============ここまで

「敗戦の年の秋口のことです」と書いてあるとおり、この女性が復員兵から話を聞いたのは戦争が終わってすぐ、の時期です。「私はバネじかけの人形のようにとび起きてカヤの外にとび出そうとしました。」に表れているように、相当なショックを受けたのだろうな、と思いました。
この読者証言の連載を読んでいた私は当時16歳で、「いったい女の体にどこまで手が入るかということになって、・・・」の部分は、被害者の体のことを想像して自分に置き換えてみるととても恐ろしく、この話は、時々なにかのきっかけで思い出しました。(この証言の一週間後の当時25歳の女性の投稿には、「女性の立場から身震いするほどの恐怖感で体をこわばらせました。」という感想があります。また、25歳女性の投稿と並んで、55歳女性証言に対し"反論"めいた投稿も。掲載当時65歳男性(戦地に日本軍として行った人)は、「敗戦にすさんだ生活の中での酒席のワイ談を、決して真実と信じてはならない。」(「私は、前進でそれどころではなかった・・・連日行軍のその日、朝から下痢をして・・・」ということも)、と書いています。ですが、「敗戦にすさんだ生活の中での酒席のワイ談を、決して真実と信じてはならない。」とは言い切れない、と思います。

「日本軍 レイプ」で検索したら、
ニューギニアで 旧日本兵が行った残虐
というページに出会いました。こんなことまで・・という日本軍の残酷・残虐行為。(読むと気分が悪くなるかもしれないですが、私は、これは確かに現実に起こったのだと思いました)
1944年から1945年にかけてのことらしいですが、読んでみると、文中でも筆者が「はたして、この被害の実態が被害者側の証言だけで証明できるのだろうか。」と書いているように、「真実かどうか」「実際にあった事件かどうか」は、証明が難しいかもしれない。でも、証言した現地の人は、確かにいる。
(上のリンクのニューギニアの記事は、1997年10月17日発行の「週刊朝日」らしいです。書いたのは、須藤真理子さんという、2000年の12月に亡くなったジャーナリストのようです。「映像作家の鎌仲ひとみさんが、須藤さんの闘病の日々をNHKの特集番組で撮影なさった」と、こちらのページ→Cafe Lunatique (No.0019) 寮美千子の掲示板 に、須藤さんのことが書かれています。

また、おそらく一般の方のブログですが、
復員兵が帰ってきた 昭20年秋 (2007年2月3日)
という記事を見つけました。
(ブログ:「nozawa22」さま。)勝手ながらリンクさせていただきました。
『昭和二十年の秋だっだろうか。その頃あちこちの家に戦地から父や兄が帰ってきた。』
というはじまりで、復員兵の人の話を書いていらっしゃいます。
戦地から帰ってきた日本軍の兵士ひとりひとりに、
想像も出来ない苦労があったのだな、と思いました。


-----------------


重い話が続きましたが、
次回のブログは、少し趣を変えて。



原爆投下---人類が起こしたことを忘れてはならない。[2]
2014年08月23日 (土) | 編集 |
8月15日付
原爆投下---人類が起こしたことを忘れてはならない。
の続きです。

【2012年の夏】 被爆の記憶託す 次世代の語り部に養成 広島原爆投下67年  (2012年8月6日 夕刊)
(~朝日新聞の紙面から~<広島・長崎の記憶 被爆者からのメッセージ>)
  ↑ この前最後にリンクした、これは2年前の朝日新聞記事なのですが、
『「生き証人」の被爆者も全国の平均年齢が78・1歳と高齢化が進む。広島市は今年度から、語り部を若い世代に引き継ぐ事業を始めた。被爆体験のない世代に被爆者の記憶を引き継いでもらい、3年間かけて語り部に養成する。』
とあります。
広島市が、「語り部」を養成する、ということです。
私は、これはとても良いことだと思いました。

今から書くのは広島ではなく長崎の原爆の話なのですが、私は以前(といっても、もう、7~8年は経っていると思う)、テレビ番組で、ですが、被爆体験者が減ってきてしまい、若い「語り部」を養成して、長崎の平和記念公園を訪れた人に対し、「被爆体験」を説明する、という場面を見たことがあります。
テレビ画面で見たのは、ちょうど、養成された「語り部」の方(20代半ばくらいの若い女性だった)が観光客に被爆の瞬間を説明しているところでした。詳しくは覚えていないのですが、「目もくらむような白い光がその一瞬・・・」という風な表現、そこだけは覚えています。
それからおよそ3~4年後の2011年3月、東京電力福島第一原発事故が起きました。その後、その年に3回(翌年は私は参加できなかったのですが)、このブログのリンク先の麻生さんが、「原子・原子核の構造・核兵器の仕組み」について(「地震のメカニズムと原子力発電の基礎」についても)、勉強会を開いてくださり、私は参加してきました。
その勉強会の講義を聞いている最中に思い出したのが、長崎の、若い女性語り部の人の、「目もくらむような白い光が…」の部分です。核分裂の連鎖反応の解説も聞きました。
それで何が言いたいかというと、ただ、被爆体験者の話を聞くだけ、もしくは「語り部」として養成された人の話を聞くだけでは、総合的に核・核兵器の恐ろしさを理解できるだろうか、という疑問があるということです。(もちろん、体験を聞くことには大いに意義がありますが)
アメリカが落とした広島型原爆と長崎型原爆の違い、核分裂連鎖反応まで、中学生くらいのうちに、受験勉強のような形での「流し」のような形ではなく、平和教育(…というと”政治的”と言われるのだろうか…しかし重要だと思う)として学ぶべきではないか、と思いました(学習指導要領では、「原子」について中学から習うのでしょうか)。
日本は世界で唯一、原子爆弾を落とされた国です。科学の教師は、原子や核の仕組みとともに、使いようによっては核は破滅的な結果をもたらす、ということを子どもたちに伝えなければいけないのではないか、と思います。(否、世界でも最悪の原発事故が起きていまだ進行中の今、『使いようによっては』ではなく、核は人間の手には負えない、と言う他はないです)

この前、このようなツイートが目に止まりました。

『科学の立場から意見を言う必要があると思っています』 に、同意です。


そして、「語り部」の話に戻りますが、原爆の体験を、話だけを聞いても得られるものはもちろんあると思いますが、さらに、話し手も聞き手も原爆について科学的なことをある程度理解していれば、過去のことではなく、これからの自分自身のこととして伝えたり受け取ることができるのではないでしょうか。


また、これは、まさにそうだなと思ったツイートですが、


ツイッターで、このようなことを言っている人がいました。
これも、一理あるなぁと思いました。

戦争に限らず、ネットで見かけた話ですが、
「地域に伝わる盆踊りを、誰も踊れる人がいない。ギリギリ、誰かお年寄りに聞けば分かるかも、くらい。もしかしたら、(再現は)難しいかもしれない」、というような、ある女性の話。その人は続けて、「もう今からの時代、『言い伝え』とか『こうやってこうやって』と踊りを教えるんじゃなくて、映像を動画に残してCD-ROMみたいのにコピーするとか、そうしないと、地域の無形文化が消える」とも言っていました。

それと同じで、「語り部」というのは、限界があるのではないかな・・とも感じます。しかしもちろん、繰り返しますが、だから「無くしていい」というわけでもないと思います。

8月9日、69年前に投下された長崎原爆の映像を細かく解析した映像を、TBSの報道特集で見ました。昔のままの不鮮明な映像ではなく、現在の技術で解析した映像でした。衝撃波のような空気の動きも見えました。現在85歳(被爆当時16歳)の、長崎の原爆で被爆した男性が、苦悩の表情を浮かべながら映っていました。
「JCCテレビすべて」
 ↑こちらで、2014/08/09 (TBSテレビ[報道特集])放送の、内容だけ見られます。
08/09 18:12 悪魔の火球・8月9日・長崎
08/09 18:16 熱線を浴びた被爆者
08/09 18:20 米国にあった原爆フィルム
08/09 18:24 最新技術でよみがえる映像
08/09 18:30 デジタル処理された悪魔の火球
08/09 18:35 悲劇を伝えること
08/09 18:37 原爆の被害をどう伝えるか

「熱線を浴びた被爆者」より、一部抜粋、転載。===========
JNNでは米国に残されていた長崎への原爆投下の瞬間をとらえたフィルムをデジタル解析し、見えてこなかった長崎原爆の実態に迫る。
原爆の熱線で背中に大やけどを負った少年・谷口稜曄は、今年85歳。
長崎市住吉町で被爆。
谷口にきのこ雲の記憶はない。
原爆は郵便配達をしていた谷口の背後で炸裂。
谷口は魚雷工場に逃げ込んだ。
やけどは背中全体に及び、一命は取り留めたが長く苦しい入院生活が始まった。
後遺症は様々な健康被害として現れる。
何度も移植手術を受けた背中の皮膚に汗腺はないため、2日に1度薬を塗らなければならない。
谷口は「よくぞ生きていたという目と醜い体をしているという目。
こんなしても生きなきゃいけないのか。
退院する時は喜び半分と苦しみ半分。
戦争に対する憎しみ半分」と話した。
====================ここまで。

こうやって、映像は残っているのです。そして、人間とともに被爆して、一瞬のうちに炭になってしまったお弁当のご飯、被爆した人の服、その他、遺品は残っています。引き継いでいかなければならないと思います。


原爆投下---人類が起こしたことを忘れてはならない。
2014年08月15日 (金) | 編集 |
こんにちは。

広島に原爆が投下されて69年経った、8月6日に、ツイッターから、
こんな「つぶやきまとめ」が流れてきました。
【広島】いつまでも原爆原爆うるせえよ【長崎】

このタイトルにつけられたコメントというか小さい表題は、
『こういう人間が出てくるのは、はたして風化によるものなのか、それとも何かへの反発なのか…。』
です。
反応の中には、「原爆の日のせいで、テレビが原爆特集ばっかりだよ」
という内容の書き込みもある。

【広島】いつまでも原爆原爆うるせえよ【長崎】 をパッと見た時、私は、
「それは分かるような気がする」…と、なぜか「分かる気がした」のですが、
自分でもなぜだろうと思いました。
次の日8月7日、6日の広島での平和記念式典の様子がテレビで放送されていました。私はそれを、家事をしながら見ていたのですが、そこで前日の【いつまでも原爆原爆うるせえよ】を思い出しました。
夫に、「こういう、つぶやきまとめをツイッターで見てさ・・」と話しかけたら夫は、畳み掛けるように私に、
「そりゃあ、あんな年になってもまだ引っ張り出されて、その当時の体験を語れだのなんだの、言われてみ?原爆を落とされたんだぞ。人間は、忘れることで生きていくってことができるんだよ。体験を語れるような人ばっかりじゃねえよ。」
「マスコミがこの時期になると、やたら被爆者を崇(あが)めるような感じになって、オレはそれは違うじゃねえかと思う。みんなさんざん、広島もん長崎もん、って言葉で差別したんだぞ」

と、言いました。

それだ、・・と思いました。

私が、【広島】いつまでも原爆原爆うるせえよ【長崎】 に感じた、「それ分かる・・」
という感覚、夫に同意する部分もあります。

『人間は、忘れることで生きていくってことができるんだよ。』
と、夫は言いました。
(重要なことですが夫は、「戦争はダメ」「戦争には反対」という考えです)
テレビ報道で見ただけですが、
原爆の被害者は、昨年になってやっと話したという人もいました。

家族を突然失った時の気持ちや身体の痛みは、私自身が分かるような気がしました。この前の「貧血」の記事で書きましたが私は自分の子をおなかの中で失いました。もちろん、私の子どもの死と原爆で亡くなった人とは違いますが、「その時のことや思いをなかなか表現できない、人に(家族であっても。家族であればなおさら)話せない、というのは似ている(私事ですが、子どものことは夫も私と同じだろうと思う)。


ただし、今まで書いたのは、主題からは離れた部分です。
今日私が主題にしたいのは、「忘れたいこともある」ということではないです。

人間が人間の上に原子爆弾を投下したという、
人類が起こしたことを忘れてはならない、ということです。

【広島】いつまでも原爆原爆うるせえよ【長崎】
には、ある部分で同意するところがあっても、
私は、それではいけないと思っています。

伝え続けないとならない。

【2012年の夏】 被爆の記憶託す 次世代の語り部に養成 広島原爆投下67年  (2012年8月6日 夕刊)

横浜市の中学生が戦争語り部に「死に損ない」の暴言。その真相は?[ はまれぽ.com ]

上の二つについて、私なりの感想や考えたことを書きたいのですが、
明日か数日後くらいに、別にアップします。


(1946年~60年代、)アメリカ・ネバダ州での原爆演習に参加した兵士(当時17歳)の回想---1995年放送のNHKスペシャルより。
2014年08月06日 (水) | 編集 |
こんばんは。深夜の8月6日です。
広島に原爆が落とされた日です・・。
原爆で被曝した人が高齢や病気で亡くなり、
原爆の悲劇が忘れられていってしまうのではないか、という危機感があります。

この前録画しておいて、見たCS放送のHISTORYチャンネル【特集:世界大戦】の、
「NHKスペシャル 映像の世紀 第8回」(元は1995年11月18日放送)から、
内容を一部(1時間半の番組のうち、15分ほど)、書き起こしました。
米ソの核実験の最初の部分と、核実験演習で被曝した米軍兵士の証言です。

=====================ここから。

冒頭のナレーション:
「1950年代から60年代初め、核の脅威に支配された冷戦の時代を描きます。」

■アメリカの最初の水爆実験が、1952年11月1日に行われた。
(中部太平洋のエニウェトク環礁)
■ソ連が初めての水爆実験。1953年8月12日。セミパラチンスク核実験場。

ナレーション:
「核兵器は、”戦争を抑止するための力”、とみなされるようになりました。」
「核兵器を、戦争の抑止力とみる考え方は、核軍拡競争に拍車をかけることになります。」

■アメリカは、ネバダ州の砂漠で、核戦争を想定した実験を繰り返した。

ナレーション:(以下、同)
「この映像は、原爆を使った(アメリカ・ネバダ州での)軍事演習を記録したものです。」

~「塹壕」(ざんごう)に入る大勢の兵士たち~(の映像、以下、同)

「1951年以降、兵士が実際に核爆発にさらされる軍事演習が、
何度も行われました。」

~核爆発(原子爆弾)に備え、壕に入って頭を伏せる兵士たち~
~核爆発が起きる~
※赤い文字は、核爆発の軍事演習参加の兵士証言

爆発の瞬間、あたりは真空状態のように感じられた。
すべてが死に絶えたように、静まり返った。


~まぶしそうな顔をする兵士がいる。画面は、一瞬、真っ白に~

そして、猛烈に明るい光。僕はとっさに、手で目を覆った。

~きのこ雲。
字幕「原爆演習参加兵士の回想 より」~

だがまるで、X線をあびたように、指の骨が白く透けて見えた。
その後、大音響とともに地面が激しく振動した。


~爆風で吹き飛ばされる、飛行機の機体~

耳をふさいでも、轟音が響き、頭が破裂しそうだった。

~(何km先か不明)、きのこ雲を見る、演習参加兵士たち。映像に、衝撃波のような明るい光が地平を走る~

空を見上げると、巨大な火の玉が僕たちのちょうど真上にあった。

~(まぶしいのか)下を向く兵士、手でひさしをくつって空を見上げる兵士、黒いメガネをしている兵士二人~

原爆を知るまで、僕は健康で無邪気な、17歳の若者だった。しかし爆発の瞬間、僕は悪魔の存在を思い、もはや以前の自分ではなくなってしまった。

~爆風を受ける兵士たち~

この世は、死の世界と幸福の世界からできていて、それらは薄い「まく」で隔てられている。僕はその「まく」を突き破り、死の世界をのぞいてしまったのだ。

~壕にいる兵士、かなりの強風を受けている。その後、壕から出る~

爆発の後、僕たちは前進し、強い放射能の中に入っていった。この演習から間もなくして、僕の髪の毛は抜け始めた。

「アメリカの核実験に参加した兵士は、25万人~50万人にのぼると言われます。現在もその多くは、放射線被曝が原因とみられる、何らかの健康問題を抱えています。」

==========================書き起こし、ここまで。

参照:ネバダ核実験場(wikipediaより)
『1951年から1992年にかけて、928回の核実験が行われたことが公表されている。うち、828回は地下核実験である。』、とあります。

私は、アメリカの若い兵士の証言が重要だと思いました。
映像を見ていて、核実験を「演習」するにはあまりにも装備が軽い。
これでいいのかなと思ったけれど、良いわけがないだろう・・。
兵士たちは、放射能の有害性は教えられていないのではないか。
(今ちょっと調べてみましたが、「まるで人体実験のよう」とも)

詳しく書いてあるページが見つかりました。
「戦争を語り継ぐ」というHPの、
アメリカ被爆兵士の告白
というリンク。(HPの管理人様、リンクさせていただきました)
米兵数人の被爆体験の証言が、詳しく書かれてあります。
最初の証言の”指の骨が白く透けて見えた”という部分が、NHKスペシャルの「17歳の兵士」と同じで、「元アメリカ陸軍 ロン・ドラン」さんという人かもしれません。
 実験のあと、私は肺をやられ、胃から出血しました。関節炎、胆嚢の障害、尿路疾患、心臓も悪くなり、発作をおこしたこともあります。あの実験で、モルモットにされた翌日、歯茎から出血しました。2週間後には、歯がぐらぐらし始めて、指で触るとポロっと抜け落ちてしまいました。7本もの歯が抜けました。胃の調子はどんどん悪くなり、大量に出血したため、手術を受けました。胃潰瘍だといわれました。それまでは、どこも悪くなかったんです。
と、書かれています。
(実験場には)羊や豚、牛もいました。とも、あります。
番組では、被爆した後の、毛がチリチリに焦げた羊が映っていました。

NHKスペシャルの映像を見た後に、このHPを発見したのですが、
(NHKスペシャルの番組では語られていませんが、)
塹壕の兵士は爆心地からそんなに離れていない(2kmほどか)ようです。
私が映像を見て『黒いメガネをしている兵士二人』と書いたのは、普通の兵士ではなく、
もしかしたら軍の中でも上級の人、またはマスコミ関係者の可能性もあります。

この証言、「彼らのナマの告白が、アメリカのプロダクションによって、明らかにされた」と、HPの管理人さまが書いているのですが、元の情報源というのが不明ですが、また調べてみます。

今回視聴したNHKスペシャル、冷戦時代の核について取り上げていますが、
米兵を参加させた原爆演習の続きは、第五福竜丸の放射線被曝でした。

(1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行った。
第五福竜丸がビキニ環礁から160kmの場所で、水爆実験に巻き込まれた。
乗組員23人が被曝した。)