2008.08.26 B,C級戦犯
きのうの夜、HNK教育テレビで「B,C級戦犯」について特集をやっていた。
何気なくテレビのチャンネルを回したら、放送していた。
ついつい、見てしまった。断続的ではあるけれど。

橋本忠さんという人は、日本軍の軍人として・・現地の住民を350人、虐殺した罪に問われ、
戦後、一時期帰ってきて荒れた土地を開墾したりしていたが、
現地の人の証言で罪が明らかになり、クアラルンプールでイギリスの軍事法廷で裁かれた。
そして、死刑に。
橋本忠さんの甥(おい)が、叔父の当時の様子、裁判のなりゆきを追っていた。

現地の人が当時の様子を証言していたが、その内容は本当に虐殺だ。
老人は涙を浮かべ悲しそうに、「きのうの事のようだ。絶対に忘れられない」と言っていた。

戦犯として法廷で裁かれながら、生きて帰った飯田進さん(現在85歳)。
ニューギニアへ行ったということだった。「アジア民族の解放」という名目で。
ここでも、私は釘付けになった。
ニューギニア・・。パプア・ニューギニアと、ニューギニアの区別も良くつかない。
私の祖父が行った場所だ。
気になってしょうがない。祖父は、ニューギニアのどこに行ったのか。
日本軍の中で、どんな係(役目)をしていたのか。
現地の人と写っている写真を見たことがある。緊迫感のない、穏やかな雰囲気。
でもきっと、現地の人は日本人を怒らせまいと必死だったのだろうか。

それにしても、B,C級戦犯の人が日本に帰ってきてからまた海外に行き、
海外で裁判を受けて海外で処刑されていることを全く知らなかった。
これはとても重要なことではないのか。なのに私は、きのうテレビを見るまで、
何も知らなかった。あまりにも何も知らない。
東京裁判のことについて、だって。
自分があまりにも何も詳しいことを知らないことに、愕然とした。

きのう番組を見ている間、私は吐き気とめまいをもよおしていた。
でも、見ずにはいられなかった。
2008.08.09 11時2分に
今日の朝日新聞声欄の投書。
長崎の28歳男性教員。(抜粋。そのまま)
「8月9日、長崎は登校日だ。そこで凄惨な写真を見て原爆の悲惨さを知り、
11時2分に全校で黙祷をささげる。テレビをつければ原爆特集が組まれ、
人々の目は一度に『あの日』に引き戻される。
長崎を一歩外に出れば8月9日は登校日とは限らないという事実は、
頭では理解をしていたものの、実際に体験してみるとやはりショックだった。
『原爆』という言葉が耳に入ることは少なく、黙祷をする人は私の周りにはいなかった。・・・」

子どもの頃、そうだったなぁ。特に、たとえ偶然登校日であっても、黙祷なんてしなかった。
今も、そう。原爆のことについても、戦争についても、家族でたまに話したとしても
他人同士で真剣に話す事なんて、ない。
ダンナと話していても、「俺も戦争行きてぇ」とか
「北朝鮮にやられる前に、やっちゃえばいいじゃん」などと言う。
63年経った今では・・戦争を実際に体験している人も年々減って、
戦争がどこか他人事のようになっているかもしれないなぁ・・。私も。

この8月の、(言葉がよくないんだけど)「風物詩」のような・・とも受け止めてしまう、
特にテレビでの扱い方。
もちろん、何にも触れないよりはずっといい。

風化・・他の国もどうかはよく分からないけれど、日本では、いろんなことが風化しやすいのかな。
でも、例えばアメリカでも9.11のことが風化しつつあるというのを新聞で読んだことがある。

阪神大震災、地下鉄サリン事件の頃から何となく、変わってきたように思う。
何が?うーん・・何もかもが、風化するのが早いというか。

こんな大事件が起こった・・と知らされるのに、心の中で消化できないうちにまた大事件が起き・・
(地下鉄サリン事件・・酒鬼薔薇事件・・和歌山カレー事件・・9.11・・「宅間守」事件・・硫化水素自殺)
そしてこの前の、秋葉原の通り魔事件。書店の通り魔事件。

じゃあどうすればいいのか。
家族で意見がいろいろ違ってもいいから、そのことについて話せばいいのかな。
しかし、この平和がいつまでも続くとは限らない・・という想像が、果たして今、出来るだろうか。
自分も含めて。
それよりも、2,3年先もやっていけるかどうかとか、老後の心配か。

私が初めてブログを見るきっかけになった映画がある。おととしの4月。
「ブラックホークダウン」という映画を見て、アメリカ軍によるイラクのファルージャ掃討を思い出した。
ファルージャは、あの”イラク日本人人質の自己責任論”騒ぎでも、印象に残っていた。
「ファルージャ 掃討」で検索して、そのブログに行き着いた。
このことはまた、書こうと思う。
2008.08.06 8月6日とは。
うまく書けなかったので、一度消した。

8月は、何となく憂うつになる。
あの子とお別れしたのは8月23日。日曜日の朝早くだった。
もしかしたらその前の日に、もう生きていなかったかもしれない。

その日からだった・・。死について強く考えるようになったのは。
「命は大切なもの」・・そんな事分かっているさ・・それまでは、そういう態度だった。
”普通に(?)(普通っていうのがやっかいだけど)”そう思っていた。

その日からすべてが虚しくなった。
なんとも言えない虚脱感。受け止められない。


例えば、家族を突然殺された遺族は、月日が経つにつれてかえって辛くなる人もいるという。
分かるような気がした・・。

・・・それからしばらくして、すべての命が、「すごい」「生きているってすごい」、
と感じるようになった。
虫が動いても、雑草を見ても、家族が喋っているのを見ても。生きているから。


そして、うぴしに「ごめんね」「今まで良い飼い主じゃなかったね。ごめんね」と謝った。
命を大切に、って、殺すとか殺さないとかそういうことだけじゃないんだ・・
と、考えた・・。うぴしを快適に過ごさせてあげていなかった。

「乗り越えよう」なんて思っていたけど、そうじゃなくてもいいかもしれない。
無理して、元気になろう!としなくても・・。


あの日あの時間にあの街に、人が生活している所へ、犬も猫もニワトリも牛もいる所へ、
なんで、原爆なんて物を、落としたのか・・
戦争を早く終わらせるためだったと言う人がいるけれど、そんな事軽く言って欲しくない。

それまで頭でしか考えていなかったことが
(心でも少しは分かっていたつもり・・だったけれど)、
あの子が死んでから急に、
8月6日、9日に原爆が落とされたことは自分に近い物事となった・・。
戦争のことも・・。
きのうの山梨日日新聞の総合面に、
  --被爆死した米兵3人搭乗--
     【B24爆撃機の機体発見】

という記事が載っていた。
ああ・・聞いたことがある・・確か墜落して捕虜になって、そして原爆が・・

発見されたのは
「広島への原爆投下直前の1945年7月末、現在の広島市佐伯区で墜落した
B24米軍爆撃機『タロア』の機体の一部とみられる金属板2枚」だそうだ。

その、タロアという飛行機にはアメリカ兵3人が乗っていて、
呉港に停泊中の戦艦を爆撃するために、沖縄から広島上空へ飛んだらしい。(新聞から引用)
そして、広島市佐伯区で撃墜された・・・。3人は捕虜に・・。

まさか、仲間である米軍が落とした「新型爆弾」で死ぬとは、
3人とも、思いも寄らなかっただろう。

もし、戦争が終わるもっとずっと前だったら、
撃墜されて日本の捕虜収容所になんて入れられれば、
健康状態を悪くして病気や栄養失調かなんかで死んだかもしれない。
でも、もう少しで戦争も終わるという時だったのに、
捕虜になっても原爆さえアメリカが落とさなければ、
3人は死ななかったかもしれない・・。と思った。
他の米軍捕虜の人たちはどうなったのだろう。生き残った人はいたのだろうか・・。

祖父は、戦地へ2度行かされた。一度目は中国。二度目はニューギニア。
帰ってきて胃潰瘍を悪くして、終戦後2年で死んだ。

祖父の事をいろいろブログに書いてみたい、と思っていた。
でも、…何も詳しく知らない、ということに気づいた。
5年前に亡くなった祖母からも、
「胃潰瘍になってしまい看病が大変だった、おじいさんは戦争で体を壊した」
ということしか、聞いていない。
あるのは写真だけ。
(祖父が持っていた写真で、中国人であろう人が殺されている写真は、
終戦後急いで捨てたらしい。)

私の世代でこれだから、もっとずっと若い世代ではあの戦争自体が、
”歴史の教科書で習うもの=例えば明治維新のような”になってしまうのかな・・。

あの日に広島で直接被爆した人以外にも、後日爆心地に入った人も、
原爆の放射能が原因と思われる白血病やガンになった人や、
それで亡くなった人が大勢いるようだ。最近まで知らなかった。
5月31日(土)の朝日新聞be1面の「フロントランナー」に、山梨日立建機の社長である雨宮清さんが紹介されていた。
[山梨の町工場のオヤジが、世界の地雷と闘っている。経験ゼロから奮起一番、
たたき上げの技で悪魔の兵器と渡り合う。
反感にも、爆風にも、戦禍にもめげず、地雷除去を手がけて15年。
今度の舞台はアフリカだ。]


私がテレビで地雷を除去しているのを見たのは、ダイアナ妃が透明なガードする物を被って、
地雷除去の現場に足を踏み入れているのを報道された時が、初めてだったと思う。

手作業?・・・でも、よく考えれば、そうするしかないのか・・。
この除去作業でも爆発したりして、人が死んでいるんだろうな・・。
それに、このペースだと、焼け石に水という感じがしてしまう・・
造って地雷を置く数は、ものすごい量なのかな。
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アンゴラは、「世界で最も地雷に汚染された国で、国土の3分の1にあたる面積が地雷原。日本全土より広い」のだそうだ。

雨宮さんは「内戦終結を待って訪ねた。電線を守るために地雷が道路に埋められ、往来が寸断されている。」
・・・・・。「投票すらいけないという状況」なのだそうだ。
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そもそも、なぜ地雷除去機を作ったか
「94年、仕事のついでに足を延ばしたカンボジアで、幼女をおぶった老婆に出会いました。
右ひざから先がなく松葉杖をつき、焼けただれたほおをスカーフで隠していた。
地雷で家族はみな亡くなったそうです。
『カンボジアを助けて』と訴えられ、耳から消えなくて。」
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「●カナダ製の機械がすでにあったが、カンボジアは低木が多く、すぐ使えないとわかった。
 現地で本当に役立つ機械を、と開発に踏み切った。
手作業が一番だと言う人もいるが
 80ヵ国以上に1億個を越える地雷が埋められている。手作業は危険だし、いつまでも終わらない。
機械の押し付けにならないよう、現地の人と同じテントに寝て、メシを食い、
何が必要か聞いてきました。

●アフガニスタンは砂漠に見えてもガチガチの岩盤。場所ごとに機会は開発し直す。
 欧米製の機械は半分は動かなくなっているけど、うちは1号機からすべて現役だ。
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「●アンゴラでは30年近く続いた内戦が終わって間もないから、ほとんどの地雷が生きている。
 ワイヤで引っ掛ける悪質な仕掛け地雷が多い。
 大型の機械は比較的入りやすいが、岩がちで処理が難しい。まだ課題は山積みだ。でも、
 若者たちは明るくて勤勉、母国を良くしようと一生懸命。手応えはある。」
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日立のCMで、昔ここは地雷原だったんです・・・でも、地雷除去機によって、人が入れるようになりました・・・というようなCMを見たことがある。
以前は荒涼とした所(人が大勢亡くなったであろう)で、子どもたちが遊んでいる。

でも、アフガニスタンでは除去した場所に再び地雷が埋められていたり、集落が崩壊していたり、決して順風満帆に地雷が減る、というわけではないらしい・・そうだよね・・うーん・・

それでもニカラグアからは、「地雷原が果樹園に生まれ変わったと便りが届いた」。
「住民の意見を機体に取り入れて、地雷を爆発させながら土地を耕す」
「強力な磁石を機械につけて、飛散した地雷の破片を吸い集め、耕作に有害な物は残さない」
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失敗してもうまくいかなくても、「15歳から機械一筋に生きる誇りが断念を許さない。」
尊敬する武田信玄は「『人は城、人は石垣、人は堀』と言って家臣を重んじ、
生涯城を持たなかった。
私は物づくりに生きる人間だけど、人づくりこそすべてだと思います。」


そうだね人づくり・・。すべてはそこから始まるか。
雨宮さんは年60回ほど、日本の学校などでボランティアで講演をしているそうだ。
「講演先で話を聞くと、子どもたちの心が荒れているのを感じます」ともあった。
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余談。なかなか雨宮さんのような歳の取り方ってできるもんじゃないような。
社長、かっこいいわ。

☆コメントちょと待っててくださいね〜(・ェ・)☆